西村賢太の小説が面白かったので女を殴る小説を書きました。――「焼却炉行きiTunesカード」

「焼却炉行きiTunesカード」

 

 財布は軽かった。背中にけたたましい機械音を受けながらパチンコ店を出ると日は既に落ちていて、十一月の秋風が財布の中身も相まって余計に寒く感じられるのだった。思えば、ふっと手持無沙汰になったのが運のつきだった。そこからものの数時間で入ったばかりのバイト代のほとんどが台に吸い込まれてゆく様を僕はただぼんやりと眺めることしかできなかった。

 寒風に当てられたことで改めて現状を理解した僕は、己の運のなさと行動の軽薄さに対する怒りを振り払うように、財布にわずかに残された小銭を使いコンビニで缶チューハイを買うと、それを一気に呷った。すると胸の裡に胚胎した怒りはたちまちのうちに膨らみ、何ともやるせない気持ちで自宅を目指した。パチンコ店から僕の下宿するアパートは目と鼻の先だった。大学入学時に入居して今年で三年目になるいかにも学生向けの安アパートの部屋には明かりがついており、パチンコで大敗して荒みきった僕の心にぱっと小さな光が灯った。僕には大学一年生の時から交際している女性がいて、今年の春からはアパートの合鍵を渡しているのでこうして暇を見つけては男の一人暮らしに甲斐甲斐しく世話を焼きに来てくれるのだった。

「おかえりなさい。……もしかして酔ってる?」

「うん、まあ、ちょっとな」

 僕はヤケクソになって酒を呷ったことなぞ言えず、モゴモゴと言葉を濁して自室にあがった。朝脱ぎっぱなしにしていた服は姿を消していて、そこら中に投げ棄てたゴミの類も綺麗さっぱり無くなっているのを見るに、どうやら彼女が片づけてくれたらしかった。僕は惨めな思いと彼女に対する有難い気持ちを抱きながら片付いた床に座り込んだ。彼女はエプロンを腰に巻いていて、こちらもまた綺麗に片付けられた台所からは食欲をそそる香りを漂わせている。

「今日は肉じゃが作ってあげるね。駄目だよ、インスタントのものばかり食べてちゃ。野菜も全然食べてないんでしょ? 冷蔵庫にサラダが入ってるから先に食べてて。肉じゃがはもう少し時間かかりそうなの」

 冷蔵庫を開けると確かに皿に綺麗に盛りつけられたサラダが二皿並んでいた。レタスにカットしたトマト、そしてポテトサラダが丁寧に飾り付けられてあった。僕はそれを彼女の分も一緒に食卓に運び「お先に頂きます」と小さく告げるとモソモソと口に運んだ。彼女の言うとおり、生の野菜を口にするのは久しぶりのことだった。

 肉じゃがはほどなくして運ばれてきた。じゃがいもは見るからに柔らかそうに煮込まれており、人参はご丁寧に桜の形に切り揃えてある。改めて二人で「頂きます」と告げると僕は真っ先に肉をつまみ口に運んだ。僕好みの濃い目の味に味付けられており、何もかも彼女に見透かされている感じがして背中にうすら寒いものを感じたが、手料理の温かみに僕の荒んだ心はすっかり懐柔されきっていた。

「そういえばあれどうなった?」

「あれって?」

「ライブのチケット。今日が発売日であなたが任せろって言うからお願いしたじゃない」

「あっ」

 僕はこの時まで彼女との約束をすっかり忘れてしまっていたのだった。手持無沙汰だったのは何も用事があったわけではなく、約束の存在を忘れてしまったことで何となくそう感じてしまっただけのことだったのだ。

「もしかして忘れたの?」

「……すまん」

 謝罪の弁を口にしたが、彼女の表情はみるみる不機嫌になってゆくのが分かった。

「私があのバンドがどれだけ好きでこのライブにどれだけ行きたかったか知ってるでしょ? チケットだって私が予約するからいいって言ったのにあなたがどうしても任せろって言うから任せたのに……もう絶対手に入らないよ、どうしてくれるの、信じられない……一体その時間何してたの」

 まくし立てるように僕を非難する彼女のヒステリックな声を聞いているうちに、僕の心の中に収まりつつあった怒りがむくむくと再燃してきた。

「あああっ!!!そんなぎゃあぎゃあ騒ぐことねえだろたかがチケット一枚で人が死ぬわけでもあるまいしお前の分のチケット代も俺が出してやろうって考えてパチンコで増やそうとしたんだよ」

「パチンコ? あなた先月もうしないって誓ったわよね。バイト代を全部スって生活費を泣きついてきたこと忘れてないからね。それにね、あなたにチケット代を出してもらおうだなんてそんなこと願ってもないわよ。それでチケットが手に入らない、お金もないじゃ元も子もないじゃない。本当に学習しないのねあなたって、馬鹿じゃないの」

「チケット一枚で怒り狂ってるお前の方がよっぽど馬鹿みてえだよ。あんなチンポみてえな髪型の男の歌なんかにうつつを抜かしやがって」

 僕は手にした箸を彼女に投げつけた。そして一瞬ひるむ彼女に迫り頬を思いきり叩いた。吹き飛んだ彼女がゴミ箱を倒し、その中身が部屋中に広がった。彼女は恨めしそうに僕を睨みつけたが、すぐに泣きじゃくり支離滅裂な言葉を繰り返した。

「パチンコ……意味ないじゃない……チケットどうして……最低……チケット返してよ……パチンコもうしないでよ……やめてよ……」

 僕はカッとなって彼女を殴ってしまったことに対して急にばつが悪くなって、床に広がったゴミを拾い集め始めた。するとゴミの中に見覚えのないものが混ざっていることに気がついた。それは使用済みのiTunesカードで利用額は一万円とある。こんな高額なプリペイドカードを買った覚えはない。すると犯人は一人だ。

「なんだこれは」

 依然泣きじゃくり続ける彼女にカードを投げつけるが彼女は何も答えない。僕の罪悪感は瞬時に怒りに置き換わり、彼女の髪を掴むと耳許で怒鳴りつけた。

「そういえばお前最近ずーっとスマホでゲームやってたよな。ははあ、これはそのゲームに課金したんだろう。そうなんだろ。人のパチンコにケチつけた手前、自分を棚にあげたことを認められねえんだろ。おい、何とか言ったらどうなんだ。お前も同じ穴の狢じゃねえか。そのくせ、人にはぎゃあぎゃあと喚きやがって根性のねじ曲がったギャンブル狂いの馬鹿女が。お前はそうしてゴミに埋もれてるのが一番お似合いなんだよ、これに懲りたら人の行動に口を出す前に自分の行動を改めるんだな」

 僕は掴んでいた彼女の髪を乱暴に離すと彼女の頬にもう一発平手打ちを浴びせた。

「だってしょうがないじゃない……しょうがないじゃない……」

 彼女はそう繰り返しながら手の中で使用済みのiTunesカードを握りしめていた。僕はベッドに腰掛け、半狂乱の彼女を見下ろした。ズボンの尻ポケットに仕舞った財布の薄さの感触を僕は感じた。

 

〈了〉